70余年の時をへて、現在の東京に復活したこのみそ。(参照)。
江戸っ子たちが食べていたこのみそは、江戸で生まれ、街中でつくられていました。(※1)戦前には白みそ、仙台みそ、田舎みそ(麦みそ)、八丁みそ(豆みそ)とならぶ「5大みそ」として知られています。明治の終わりごろから、少しづつ衰退をはじめ、さきの戦争での製造禁止をきっかけに世の中から姿を消してしまいます(※2)。
ぐう然手にした古い戦前の文献。
そこに「江戸味噌」の文字を見つけたことがきっかけです。
さまざまな文献をひも解き、2年の試作を経ての再登場です。
※1:江戸味噌の成り立ち
※2:なぜ江戸味噌は「幻のみそ」となったのか
かつて、こんなことが言われていました。みその自家醸造が一般的だったからです。
しかし、江戸しょ民にとってのみそは買うものでした。人口増と慢性的な土地不足。せまい家。江戸ではみそをつくって保存しておく余裕ありません。味噌を自製するのは難しかったのです。
一方、江戸には毎朝みそ汁を飲む習慣があり、みそは大量に消費されていました。(対して、京阪地方の朝は茶がゆ、みそ汁は月に数回でした。)
江戸も初期には、様々なみそが各地方から持ち込まれましたが、だんだんと街中の醸造家によってつくられるようになります。そもそも、みそ業が一般化したのが江戸だともいわれています。
しょ民同様、醸造家にとっても、大量のみそを時間をかけて発酵させる従来のみそ作りは、江戸の住宅事情には不むきでした。そのため、江戸味噌は短期間で作られます。塩をへらし、蒸した大豆の温度が高いうちに、多量の米こうじを加えまぜ、発酵を一気に進めるのです。約2週間〜20日、夏ならわずか10日でみそが出来上がります。雑菌の繁殖をおさえながら、短期間で良質のみそをつくるというもの。現代の私たちから見ても、きわめて合理的かつ洗練された技術です。
ただし、一つ問題がありました。こうして出来たみそは、通常のみその様には長期保存が出来ないのです。冷蔵庫の無かった時代、夏場には、ひと月もするとこのみそは酸っぱくなってしまいます。
そこで、江戸のいたるところに小規模のみそ醸造元が出来ました。その数約180軒。しょ民には、みそを近くのみそ屋で毎日少量ずつ買ってはすぐに消費する、当用買いのスタイルが定着したのです。そんな江戸の流通環境が、江戸味噌に保存食であることを求めず、味はよいが、塩分すくなめで日持ちはしない、フレッシュ(※)な「みそ」であることを許したのです。
徴税が年貢で行われたように、コメとお金がイコールだった江戸時代。たっぷりの米こうじと、当時の高度な醸造技術を使って短期間でつくる江戸味噌。それは贅沢で洗練された、大都会ならではの「みそ」でした。富の集中する世界有数の巨大都市。そんな江戸において大量消費されたからこそ、しょ民であってもこのような贅沢な「みそ」を常食することができたのです。
※江戸味噌の特徴について ─ フレッシュ、吟醸酒のような味わい
濃いかっ色をした江戸味噌は、江戸では単に「赤みそ」と呼ばれました。たとえば、江戸の風俗を書いた「守貞漫稿」。ここには「江戸に赤味噌 田舎味噌を買食し自製するものなし」とあり「江戸味噌」とは書かれていません。また他の文献でも「赤みそ」と書かれるのが一般的でした。なぜなら「江戸味噌」という名称は地方の人々が江戸の味噌を指して称したもの。江戸っ子たちは自分たちの「みそ」をわざわざ「江戸味噌」とは呼ばなかったのです。
「赤みそ」と言えば、今は中部地区の豆みそを指すのが一般的です。しかし、大型の辞書(※)や戦前の辞書には「・・・仙台みそ、江戸みそ、いなかみその類」と書かれています。それほどまでに「江戸味噌」は、とう時の人びとにとって一般的だったのです。
※日本国語大辞典、大辞林 等
江戸しょ民に広く愛された江戸味噌ですが、明治以降は徐々に衰退の道をたどります。
明治2年。明治政府が版籍奉還を強行すると、江戸(東京)から藩邸がなくなり、多くの武士たちが郷里へと去っていきます。人口は半分近くにまで減ったともいわれます。
有力藩の一つ仙台藩も同様。大井にあった広大な下屋敷はひき払われ、そこで働く藩士たちに郷里のみそを提供していた屋敷内のみそ蔵が独立。広く販売をはじめます。(ただし、一部は以前より江戸市内に流通しています)
仙台味噌は東京の人々の好みに合っていたようです。米こうじが少ないため原価がおさえられ、また塩が多く保存性が高いので広域への流通が可能。大規模製造・広域販売にも適していました。
そんな仙台味噌の製造技術が明治中期に公開されます。当時の大資本家達がこぞってみそ業に参入。歯抜けとなった江戸の藩邸跡地に大規模な醸造所を建て、仙台味噌の製造販売を始めます。みその価格競争がはじまり、江戸味噌を作っていた小規模な醸造元が徐々に淘汰されていきます。こうして江戸味噌は東京でのシェアを仙台味噌に奪われていくのです。
参考:品川区HP
大正11年。関東を大震災が襲います。東京市内の味噌製造所は70%が焼失。足の速い江戸味噌の流通を支えるインフラが破壊的な被害をうけました。それでも50%近いシェアを維持しつづけた江戸味噌。ところが、昭和に入ると、さらに大きな時代の波に呑まれていきます。
昭和17年。太平洋戦争下の統制令により、江戸味噌は製造が禁止されました。「米を多く使い、ぜい沢だ」というのがその理由です。(実際には、昭和14年頃からすでに生産は制限されていました。)
終戦をむかえ、みその統制が解かれても、江戸味噌が作られることはありませんでした。こうじの原料となる米は、GHQによって統制が続けられ、大豆不足も深刻であったためです(※)。不自由なくみその製造が出来るようになるのは昭和30年代に入ってからのこと。20年にもおよぶこの長い空白は東京人の食習慣をすっかり変えてしまい、江戸味噌の記憶はすでに遠いものなっていました。
戦禍で多くの東京のみそ屋が被災・消失してしまったことも致命的でした。江戸味噌流通の前提である「近所にみそ屋がある環境」が失われてしまったのです。今のような低温流通が普及するずっと以前のこと。保存性が高く商圏が広い大量生産型の味噌にとって代わられるのは必然でした。これらの事情が重なり、江戸味噌はその後も作られることはなく、歴史の中に埋もれてしまったのです。
※戦前、味噌の原料用大豆の90%は、日本の実質統治下にあった満州産。敗戦とともに供給がストップしてしまいます。その不足分を補うために、GHQ指令による「いもみそ」(いもを増量材として味噌に混ぜたもの)が登場するのもその頃のことです。
江戸味噌は大豆とほぼ同量の米こうじを使う、甘口のみそです(米こうじが多いほどみそは甘くなります)。塩分はやや少なめ(10%前後)、濃い赤かっ色。そして、その外見からは想像できないサッパリとしたクセのない味。それは、このみそがもつ「フレッシュ」という、みそではあまり馴染みのない特徴に由来します。
江戸味噌の大きな特徴である「フレッシュ」。それは、短期間で作られ消費されることに起因します。さて、「短期」というと、熟成不足の低級で美味しくないみそをイメージするかもしれません。しかし、江戸味噌は決して未熟でも低級でもありません。独特の製法に支えられ、短期間にもかかわらず、しっかりと発酵が進んでいます。むしろ、発酵を早めるため米こうじを多量に使うことから、当時はぜい沢なみそとされていました。
どうやら、現在の私たちがみそに対して抱く「長熟=高級」というイメージは、戦後に定着した価値観のようです。江戸時代はもちろん戦前までは、江戸味噌のように米こうじを多く使う短期熟成(※)のみそこそが上等とされていました。
そして、この「フレッシュ」という特徴には、大きなアドバンテージがあるのです。みそ特有の香りである、いわゆる「味噌クサさ」がなく、素材の味を邪魔しないことです。
長期熟成のみそは、もちろん美味しいものです。しかし、熟成が長くなるにつれ個性の強さと「味噌クサさ」がきわ立ち用途は和食に限定されがちです。洋風化と多様化のすすんだ現代の日本の食卓では、使用頻度が低くなってしまうのです。一方、フレッシュな江戸味噌は「味噌クサさ」がなく、すっきりと洗練された味わい。味はしっかりとしているがクセがなく、甘みは軽やかですっと引き、後味はさっぱり。日本酒に例えるならば、吟醸酒に相当するような味わいです。和洋混ざり合った多彩な現代の日本の食卓にあって、はん用性が高く、極めて使い勝手の良いみそなのです。
なお、江戸味噌の外見上の特徴である濃い赤かっ色は、製造の際に大豆を煮ることなく、蒸すことで生じます。その蒸し方は江戸味噌独特のもので、短期に醸造する際の異常発酵を抑制する目的もあります。
大豆を蒸すとことで、製造過程での煮汁への大豆成分の流出が少なく、大豆由来の深い味わいが残っているのも江戸味噌の特徴です。
※米こうじを多く使うと、みその発酵期間は短くなります。
甘みそ(※)など、調味用途を主とする特殊なみそを除けば、発酵期間が短く新鮮なうちに食べる「フレッシュ」なみそは、江戸味噌が唯一です。
さて、発酵食品には、そのほとんどにおいて熟成の長短が存在します。
例えば、チーズ。熟成期間の長いパルミジャーノに対し、モッツァレラは熟成期間が短くフレッシュ。このような長短はワインや漬物などにも同様に存在します。
ここで重要なのは、それぞれの特徴と役割。
一般に長熟のものは個性が強く、そのまま食すなどの用途に限定されます。対して、短熟でフレッシュなものは、はん用性が高く使い道は様々。この異なる特徴を持った長短の存在。これこそが発酵食品に食文化としての幅と深みをあたえるのです。
ところがみそには、この「フレッシュ」に相当するものが見当たりません。正確にいえば、江戸味噌とともに失われてしまったのです。戦後、日本の食卓は急速に洋風化が進みました。そして、それに合わせるかのように、みその消費は年々減少を続けています。それは、「フレッシュ」な江戸味噌とともに、みそが様々な食へのはん用性を失い、食文化としての幅を狭めてしまったことと無縁ではないのです。
現在、和食は世界へと広がろうとしています。一方、日本の食卓における多様化の勢いは衰えることがありません。みそが今後も、日本の食卓での存在感もちつづけ、かつ食文化として広い役割を果たすためには、はん用性は不可欠なのです。そして、その鍵をにぎるのが「フレッシュ」。江戸味噌は、まさにみそ文化の未来ともいえるのです。
※京都の白味噌や江戸甘味噌が甘みそに分類されます。一方、江戸味噌は甘口みそです。
みそが江戸しょ民一般に広まったのが17世紀半ば、濃口しょう油は19世紀初頭と考えられています。その間約100年。江戸の調味はみそが中心でした。
例えば「そば」。当時の文献を見ると、つけ汁には(しょう油ではなく)みそが使われていました。(※)
さて、気になるのがその味。いわゆるみそ味を想像されるかもしれません。確かに、一般的なみそ(多くの方々が八丁味噌を使用して再現しています)の場合、その味は皆さんの想像通りとなるでしょう。
しかし、私たちの検証では(第二回江戸味噌文化研究会)、江戸味噌で作るそれは、現在の江戸前そば(に使われる「つけ汁」)そのものの味でした。
そばが江戸名物となるのが18世紀の始め。濃口しょう油が普及する以前のことです。つまり、江戸味噌で作るこのそばつゆの味こそが、私たちの知る(濃口しょう油で作る)江戸前そばつゆの元祖なのです。このことは、そばに限らず、うなぎのかば焼き(※)や天ぷらなど、私たちがしる「江戸のあまから味」の基盤として、江戸味噌が大きな影響を与えていることを示唆しています。現代の私たちの食卓につながる江戸の味覚。その形成過程における、江戸味噌の役割は私たちの想像以上に大きかったのです。
※例えば、「料理物語(1643年)」には、味噌で作る「煮抜き」や「たれみそ」を、蕎麦のつけ汁として使うと書かれています。
※うなぎの蒲焼きが江戸の名物料理となったのも、蕎麦同様に濃口醤油が江戸で普及する以前のことです。
味噌に水を加え布でこしたのち、酒とカツオ節を入れて煮詰め、再び布でこした液状の調味料。
しょう油の普及する前の調味料として広く使われていた。(作り方)
江戸のみそといえば「江戸甘味噌」を思い浮かべる人も多いかもしれません。
何を隠そう、東京のみそ屋である私たちも、江戸しょ民が「江戸甘味噌」を常食していたと考えていました。
しかし、「江戸甘味噌」は米こうじを大豆の2倍近く使う大変ぜい沢なみそ(※)。しょ民が日常的に口にできるようなものではありませんでした。また、甘みの強さと塩味の少なさから、みそ汁として毎日飲むには不向きです
「江戸甘味噌」は「江戸のみそ」の中でも甘みそに属する調味専用の特殊なみそ。歌舞伎のセリフに出てくるほどの名物みそで、当時は「極甘みそ」や「紅赤」などと呼ばれていました。広く一般に食されていたものではなく、某老舗みそ屋の秘伝みそとして、独占的に製造販売されていたものです。しかし、明治の終わりから大正にかけ製法が東京のみそ屋に広く知られるところとなり、東京中で作られるようになりました。戦前には「東京甘味噌」と呼ばれたこの味噌も、江戸味噌同様、戦時に製造が禁止されます。
生産が再開されたのは昭和32年。「江戸甘味噌」と一般に呼ばれるようになったのはそれ以降のことです。平成15年には、東京都の伝統食品として東京都地域特産品認証食品に認定されています。一方、江戸しょ民が常食していた「江戸味噌」はその後も人々から忘れられたまま。今回の復活は70年ぶりのことです。
近頃、「江戸甘味噌」を「江戸味噌」と称するケースが見受けられますが、東京都地域特産品認証食品でもある「江戸甘味噌」は、その名称とともに、すでに一般に知られています。また、分類上も「甘みそ」に属する味噌。「甘口みそ」である「江戸味噌」とは、配合・用途も異なります。食文化の正しい理解と継承のためにも、「江戸味噌」とは明確に区別し、「江戸味噌」のバリエーションの一つと見るのが望ましいというのが私たちの考えです。
※「江戸味噌」も米こうじを多く使う贅沢な味噌ですが、「江戸甘味噌」はその約2倍の米こうじを使います。